我が家では、開目抄の一節、「我並びに我が弟子~」を書き出した「A3版」のクリアファイルを、勤行の後に取り出して、必ず声を出して拝読するようにしています。御書の御文を重視することは、人本尊たる日蓮大聖人を重視する姿勢との指導を心にとどめてのことです。
このページでは、日蓮大聖人の御書「開目抄」の有名な御文、「我並びに我が弟子・諸難ありとも」からはじまる一節について、詳細に解説と確認をして参ります。確認すべき御書については、2022年5月6日現在、「新版 御書全集」と旧版の「御書全集」では、御文の表記に違いがあります。
例えば、「我並びに我が弟子(旧版)」⇒ 「我ならびに我が弟子(新版)」といった状況です。新版では、ひらがな表記が増え、句読点も多用されて、読みやすく配慮されています。以下に、当該全文を比較してみます。
【旧版 日蓮大聖人御書全集の開目抄の当該一節】
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし(御書全集234ページ7行目~9行目より引用)
【新版 日蓮大聖人御書全集の開目抄の当該一節】
我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。(新版 御書全集117ページ7行目~9行目より引用)
日蓮大聖人は、御自らが、経文に説かれる通りの実践で大難を勝ち越えられました。その御本仏日蓮大聖人が、自らの実践を通して本抄で示されたことは、諸天の加護があるかどうかという次元を超えて、大難が押し寄せてきても不惜身命で広布の誓願を貫いてゆく中に「最極の生き方」あるとのご指導です。以降、御文にそって、所感と決意を綴って参ります。
目次
我ならびに我が弟子、
我ならびに我が弟子、つまり、「私も、そして私の弟子も」という、一方的ではなく、共にとの呼びかけです。「師弟一体」の仏法の精神が感じられると共に、「師弟不二」であるということです。仏法、妙法という「宇宙を貫く根本法」である「法則」の前に、万物は平等です。したがって、人間という現実の実在の下、根本的に、日蓮大聖人も我ら弟子たちも平等であるということです。
そして、尊ぶべきは、かくなる「一大真理」を申される師匠を、我が胸中に確立していく信心が肝心だということではないでしょうか。「師匠のある人生」の重要性がここにあります。
しかるに、教祖を信仰者とは別物の貴い別格の存在と崇めていこうとする行き方は「教祖利用」の邪道に過ぎません。過去から現在に至るまで、権力を握った者の「人民支配」に、宗教・信仰の下、教祖利用の人民掌握・人民支配が行われてきました。「権力の魔性」以外の何ものでもありません。
諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。
唱題根本・御書根本の信心を、と言われます。なぜか。末法濁悪の現実世界は「第六天の魔王の所領」です。現実の縁に触れれば、生命の濁りゆくことは必定です。故に、ご本尊に向かい、南無妙法蓮華経のお題目を唱え抜く唱題行なくして、真の仏法の実践は成し得ません。
諸難ありとも、つまり、何があっても。疑う心なくば、つまり、信心の実践を貫いていくならば、「自然に仏界にいたるべし。」と仰せです。
これまで積み重ねた信心の実践で、唱題行の凄さがわかっているつもりでも、信心が強まれば強まるほど、これを忘れさせる悪縁もまた強く襲ってきます。「信心を貫き、法華経に説かれる通りの民衆救済に行き抜くことが大切」とはわかっていても、やはり、これは至難です。
これを回避する唯一の道。それは、善知識に親近すること以外にありません。学会と共に、同志と共にということです。
天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。
- 天の加護なきこと⇒ 諸天善神の加護がない!
- 現世の安穏ならざること⇒ いいことが何もない!
- なげかざれ。⇒ でも嘆いてはいけない!
と仰せです。この仰せについては、教学部任用試験(仏法入門)において、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と願兼於業(がんけんおごう)という法理を学びますが、ここに明確です。
我ら末法の衆生の真実の姿は、悪世の民衆救済を願う「福徳を積んだ菩薩」でありました。しかるに、「悪世に生まれるためにあえて罪をつくり末法に生まれ合わせた」わけで、必然的に、作った悪業は、難となって我らの身を襲うこととなります。これを「願兼於業」と言います。
ところが、妙法流布という尊い実践が「法を護る功徳(護法の功徳力)」となって現れ、本来、幾世にも生まれて受ける難を今世で軽く受けることが出来るのです。これを「転重軽受」と言います。
本来、福徳を積んだ菩薩である我らは、自らがあえて犯した罪の報いを「難ではなく功徳」ととらえ、【天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。】の仰せのとおりに前進して参りましょう。
我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。
転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と願兼於業(がんけんおごう)の法門を信じて実践するものの、末法悪世の現実には、三類の強敵と三障四魔の難に遭うことは経文の通りであり、これをいかに克服するかが最後の難関です。
しかし、その苦難や困難との戦いを通してのみ、自身の宿命の転換が可能となります。故に、難が起こった時こそ成仏の境涯を開くチャンスであると決めて、迷わずに信仰を貫いていくことです。
「我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。」、つまり、そのように朝夕教えてきたのに、いざ難が起こると疑いを起こして皆が退転してしまったと仰せです。
師弟一体の道を歩み通せる人が「現実には少ない」ということです。遭いがたき仏法との縁がありながらもったいない事です。仏法の厳しさを実感する御文ですが、同志が支援する大物政治家や大幹部の中に、これまでも退転者が確実にあった「現実」が、これを物語っています。しかるに、我らはどこまでも同志と共に、生死の海に飲まれて漂い行くことなきことを期して参りたいと思います。
つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。
「つたなき者」とは凡夫一律の性(さが)でありましょうか。凡夫という名の下に、社会的地位の上下も、貧富の差も関係はありません。そして、「そういうあらゆる『凡夫』」は、種々の難に直面した時、ともすると疑いを起こして退転の心が生じます。
まことの時にどうあるかが肝心
「まことの時」とは、難に直面したその時にほかなりません。まことの時、すなわち、難と戦うべき、「大事な時」にこそ信心で立ち向かわなくてはならないということです。一人立つ信心に則していえば、「まことの時」とは、待つべき時ではなく、招き寄せるべき時です。創価学会には、そのような信心に立つべきとの指導があります。
「つたなき者」とは・・⇒ 「慢心(まんしん)」から。
「慢心(まんしん)」とは・・⇒ 心に師匠を失った姿。
同志と共に、先生・先生と求め抜くことの「真の意味」を確認したいと思うのです。