平成23年(2011年)7月度の座談会御書である、諸法実相抄は文永10年(1273年)5月に流罪地の佐渡から、日蓮大聖人が最蓮房に宛てて著されたお手紙です。
座談会御書となる諸法実相抄の拝読範囲(御書全集1360頁6行目~8行目)は、同じく7月度の御書講義の拝読範囲の直前の部分となります。
地涌の菩薩の使命を思い出せ!
座談会御書の範囲で「地涌の菩薩の使命を思い出せ!」と述べられ、続く御書講義の拝読範囲へ続き、地涌の菩薩の祈り・一人から一人への広宣流布の方程式・法華経の虚空会の儀式が末法広宣流布のためになされた等々と述べられ、地涌の菩薩の自覚を促されています。
そして、座談会御書、御書講義の御書共に諸法実相抄全体に一貫するテーマは『使命に目覚めれば わが生命の 偉大な底力が躍動する』ということです。
地涌の菩薩とは
地涌の菩薩とは、法華経の虚空会の儀式で、釈尊が滅後末法の広宣流布を託して呼び出だした無数の菩薩たちのことです。
釈尊久遠の弟子とは
釈尊久遠の弟子とは、久遠元初の仏すなわち、末法の御本仏・日蓮大聖人の弟子ということです。
佐渡の地で、明日をも知れぬ流罪の身となった日蓮大聖人が、同じく大難を受けている門下に対して、「なんとしてもこのたびは、信心を貫いて、法華経の行者として生き抜き、日蓮の門下となり通していきなさい」そして、『日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか』、すなわち、日蓮と同じ心であるなら「あなた達こそ、末法広宣流布の尊極の地涌の菩薩ですよ」と呼びかけられています。
日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか
「日蓮と同じ心」で、この御文を身で読んで広布の闘争をしてこられたのが創価の三代の会長であることはご存知のとおりです。故に、創価の師弟の道を貫く中に、大聖人と同意の実践があり、その人こそ、尊極の地涌の菩薩であるのです。
池田先生は『広宣流布の大責任に立って悩み、苦しみ、祈り、戦うならば、大聖人の南無妙法蓮華経の御命が湧いてこないわけがない(大百蓮華2011年7月号71ページ)』といわれています。
ここではさらに、すべからく実践の元となる「祈り」のありかたについて一歩具体的に触れておきたいと思います。
日蓮大聖人は地涌の菩薩の使命を自覚するよう、門下に再三訴えられています。本抄でも「日蓮と同意」であれ、といわれています。では、日蓮大聖人と同じ志に立つ命を湧き出だすにはどのように祈っていけば良いのでしょうか。
この点について、池田先生は、小説「新・人間革命」厳護46で諸法実相抄の講義を通し、広宣流布への『誓願』の唱題が大切であると言われています。
以下、小説「新・人間革命」厳護46より引用
広宣流布への『誓願』の唱題が大切です。厳しく言えば、『誓願』なき唱題は、地涌の菩薩の唱題ではないのであります」
「誓願」には、魔に打ち勝ちゆく、仏の生命のほとばしりがある。<中略>
皆、それぞれに、さまざまな問題や苦悩をかかえていよう。その解決のためには、“広宣流布のため”との一念が大事になるのだ。
たとえば、病に苦しんでいるならば、“この病を克服し、仏法の正しさを必ず証明します。広宣流布に、自在に動き回るために、どうか大生命力をください”との誓願の心が、克服の大きな力となるのだ。
題目を唱えれば、もちろん功徳はある。しかし、“病気を治したい”という祈りが、深き使命感と一致していく時、自身の根本的な生命の変革、境涯革命、宿命の転換への力強い回転が始まる。<中略>
また、弘教など、広宣流布のための挑戦課題を成就せんと悩み、唱題すること自体、既に地涌の菩薩の生命である。ゆえに、その実践のなかで、個々人のさまざまな苦悩も、乗り越え、解決していくことができるのだ。
本年の後半戦を地涌の菩薩の「希望の声」で、断固、勝ち開いて参りましょう。
諸法実相抄の座談会拝読範囲本文(御書全集1360頁6行目~8行目より引用)
いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり
以上です。